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「新しい公共」の乖離




「新しい公共」についてのシンポジウムを見てきました。
公労協、あしなが育英会、大学教授などが参加し、熱意が伝わってくる素晴らしいシンポジウムでした。

「新しい公共」とは、かつて国に委ねられてきた公共サービスの担い手を社会の自律の下に
取り戻し、その中で政府・民間・企業が三位一体となってよりよいものにしていくという理想
にもとづいています。

しかしながら、私はその中で違和感が拭えませんでした。
というのも、実践論レベルでは所詮「経費節減」こそが市場目的となっているー
すなわち、「正統性=legitimacyの確保」などというべき論レベルでの理念と、
「功利主義」としての理念がごった煮にされている印象です。

これはどのような結果を招くでしょう。仮に公共政策の賛同者
① 功利主義的賛同者
② べき論レベルの賛同者
がいたとします。となると、公共政策の中で単純な経費節減政策はみな賛同しますが、
もし公共性の条件としての社会権の保障拡大政策を考案したときに、①は絶対に賛成しないでしょう。
つまり、このような状態の下では必然的にネオリベラリズムの擁護者、社会自由主義として
「新しい公共」は機能すると考えられます。

純粋な賛同者の方は「新しい公共は担い手の拡大であって、あくまでネオリベラリズム政策とは違う」と語ります・「そのためには監視、議論が必要なのだ」とも仰られました。
しかし、良き理念に良き結果が伴うわけではないのは、古典的自由主義者バーナード・マンデヴィルが「私利私欲に良き結果」が出ることがあると述べた通りなのです。

デヴィッド・ハーヴェイが『新自由主義』で述べた通りであり、理念段階と実践段階は分けて考えねばなりません。
私は、「新しい公共」などという崇高なものは民衆の手に委ねればいいと思っています。
そうでなければ、貴重な「公共」という宝石は政府の汚れた手に触れた瞬間砕け散るでしょう。
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