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ハイエク読書ガイド

ハイエクの概説書で使い物になるのは『ケインズとハイエク』(松原)ぐらい。
池田信夫、渡部昇一の本は単独で見ればいいかもしれないがハイエクの概説書としては
正直レベルが低い。自説に誘導したいだけに見えなくもない。

正直ハイエクはかなり読みやすい部類に入るので『個人主義と経済秩序』あたりから入るのが一番おすすめ。
そこから『隷属への道』『自由の条件』『法と立法と自由』に入っていけば良い。
もし大学図書館が使える立場なら『市場・知識・自由』(ミネルヴァ)という論文集は出来が良いし魅力的。

そこから興味を持ったものを読みかじっていけばあっという間にハイエクについての知見が得られる。
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保守の本懐

保守を掲げる政治家は多いです。安倍自民党総裁、石原前都知事、平沼赳夫太陽の党共同代表・・・etc
しかし、彼らは保守の意義を何としているのかは気になります。

そもそも、保守主義とはエドマンド・バークをその祖とし、英国を発祥とするものです。
バークはフランス主義の惨禍を目の当たりにし、「フランス革命に関する省察」という大著を
著しました。
彼は理性の強さを過信して「理性の祭典」などを開いていたフランスのジャコバン派政権を批判し、
「偏見」の重要性など、旧来の慣習を重んじる保守主義の主張を打ち出しました。

まさに保守の本懐とはここにあります。一見不合理に見えるものにも従う姿勢こそが、
保守には求められます。
保守を標榜する政治家が、盛んに改革を連呼するなど本来あってはなりません。
保守とは、決して対外硬派であることを示す立場ではないのです。
保守を標榜する政治家を見る際は、この観点こそが大切になるでしょう。妄りに合理性を信奉していないか。
改革を連呼していないか。これが大事です。

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ハイエクとノージック



政治哲学書を漁る際に、「ハイエクやノージックなどのリバタリアニズムは~」
と言われることに壮絶な違和感があります。
この二人の思想原理は全く異なるものだからです。
そもそも、彼が自由主義と述べるときの自由主義とは経済体系としての自由主義が強く、それは
社会主義、混合経済と対置させるものです。

そもそもハイエクは経済学者であり、彼は自由経済体制を擁護したわけであってノージックのように
自由を至上の価値と置いたわけではありません。彼は徴兵制ですら擁護した人間です。
彼はバークの系譜をつぐ経済的自由主義者であり、その根本的価値を社会の維持に求めていたと
思います。
晩年の著作では周囲の批判に応じてその客観的基準に拘泥していた感はあるものの、それは主要な論点では
ありません。

さらに言えば、彼は自由を求める人間を人間の不可知性、未熟さに置いています。その中で
社会を運営するためには、市場と法の支配の下での自由が必要なのです。

一方ノージックは政治的な自由主義者であり、徹底的に自由を絶対視します。
そして、あらゆるパターナリズムを拒否する中で政府の存在を肯定するために最小国家主義を唱えます。
ロックの自然法状態での賠償原理の執行機関としての国家の必要性を認めたのです。
それは論理的に極めて精緻であり、論駁の余地は少ない。
ノージックは最終的にコミュニティ内の体制については言及せず、国家を「枠」として規定しています。
私が思うのは社会主義でも自由は作れるということです。なぜなら、市場は人間の他者の束縛を
必ずしも排さないでしょう。むしろ、他者の恣意を廃するために高度な統制経済を採ることすら考えられます。

市場という必ずしも人間の努力を認めるわけでないものを肯定するのに、自由を引用するのは、正直
筋悪ではないかと個人的には思っています。自由を両者とも「他者の恣意を廃する」と定義しているので、
矛盾はないのですが。初期のハイエクは自由を行動の幅としてみたり、やはり含意としてはあるのでは、視野
がもっと広くあるべきではと思ってしまいます。
私の考えが甘いのかもしれませんけれども。

「新しい公共」の乖離




「新しい公共」についてのシンポジウムを見てきました。
公労協、あしなが育英会、大学教授などが参加し、熱意が伝わってくる素晴らしいシンポジウムでした。

「新しい公共」とは、かつて国に委ねられてきた公共サービスの担い手を社会の自律の下に
取り戻し、その中で政府・民間・企業が三位一体となってよりよいものにしていくという理想
にもとづいています。

しかしながら、私はその中で違和感が拭えませんでした。
というのも、実践論レベルでは所詮「経費節減」こそが市場目的となっているー
すなわち、「正統性=legitimacyの確保」などというべき論レベルでの理念と、
「功利主義」としての理念がごった煮にされている印象です。

これはどのような結果を招くでしょう。仮に公共政策の賛同者
① 功利主義的賛同者
② べき論レベルの賛同者
がいたとします。となると、公共政策の中で単純な経費節減政策はみな賛同しますが、
もし公共性の条件としての社会権の保障拡大政策を考案したときに、①は絶対に賛成しないでしょう。
つまり、このような状態の下では必然的にネオリベラリズムの擁護者、社会自由主義として
「新しい公共」は機能すると考えられます。

純粋な賛同者の方は「新しい公共は担い手の拡大であって、あくまでネオリベラリズム政策とは違う」と語ります・「そのためには監視、議論が必要なのだ」とも仰られました。
しかし、良き理念に良き結果が伴うわけではないのは、古典的自由主義者バーナード・マンデヴィルが「私利私欲に良き結果」が出ることがあると述べた通りなのです。

デヴィッド・ハーヴェイが『新自由主義』で述べた通りであり、理念段階と実践段階は分けて考えねばなりません。
私は、「新しい公共」などという崇高なものは民衆の手に委ねればいいと思っています。
そうでなければ、貴重な「公共」という宝石は政府の汚れた手に触れた瞬間砕け散るでしょう。

社会科学とは



かつて。共産主義という怪物がいました。
すべての政治体制が普遍法則の下共産主義世界に統合される。
そう信じ込んでいました。

それはなぜ誤ったのか。
それは社会科学が本質的に「経験の普遍化」であることに拠ります。
白鳥を見て「白鳥は白い」とするのが社会科学なのです。
これを細菌指摘したのは『ブラック・スワン』のナシーム・ニコラス・タレブですが、
最初に指摘したのはハイエクです。社会科学は本質的に帰納法なのです。

私は、社会科学というのは科学というよりむしろ芸術に似ているとおもいます。
社会の遭遇した体験から普遍性を見出し、鮮やかにえぐりだす。しかしそれは追試の利くものではない。
それはむしろ、美しき絵画にこそ比類するものでしょう。

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