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保守の本懐

保守を掲げる政治家は多いです。安倍自民党総裁、石原前都知事、平沼赳夫太陽の党共同代表・・・etc
しかし、彼らは保守の意義を何としているのかは気になります。

そもそも、保守主義とはエドマンド・バークをその祖とし、英国を発祥とするものです。
バークはフランス主義の惨禍を目の当たりにし、「フランス革命に関する省察」という大著を
著しました。
彼は理性の強さを過信して「理性の祭典」などを開いていたフランスのジャコバン派政権を批判し、
「偏見」の重要性など、旧来の慣習を重んじる保守主義の主張を打ち出しました。

まさに保守の本懐とはここにあります。一見不合理に見えるものにも従う姿勢こそが、
保守には求められます。
保守を標榜する政治家が、盛んに改革を連呼するなど本来あってはなりません。
保守とは、決して対外硬派であることを示す立場ではないのです。
保守を標榜する政治家を見る際は、この観点こそが大切になるでしょう。妄りに合理性を信奉していないか。
改革を連呼していないか。これが大事です。
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「新しい公共」の乖離




「新しい公共」についてのシンポジウムを見てきました。
公労協、あしなが育英会、大学教授などが参加し、熱意が伝わってくる素晴らしいシンポジウムでした。

「新しい公共」とは、かつて国に委ねられてきた公共サービスの担い手を社会の自律の下に
取り戻し、その中で政府・民間・企業が三位一体となってよりよいものにしていくという理想
にもとづいています。

しかしながら、私はその中で違和感が拭えませんでした。
というのも、実践論レベルでは所詮「経費節減」こそが市場目的となっているー
すなわち、「正統性=legitimacyの確保」などというべき論レベルでの理念と、
「功利主義」としての理念がごった煮にされている印象です。

これはどのような結果を招くでしょう。仮に公共政策の賛同者
① 功利主義的賛同者
② べき論レベルの賛同者
がいたとします。となると、公共政策の中で単純な経費節減政策はみな賛同しますが、
もし公共性の条件としての社会権の保障拡大政策を考案したときに、①は絶対に賛成しないでしょう。
つまり、このような状態の下では必然的にネオリベラリズムの擁護者、社会自由主義として
「新しい公共」は機能すると考えられます。

純粋な賛同者の方は「新しい公共は担い手の拡大であって、あくまでネオリベラリズム政策とは違う」と語ります・「そのためには監視、議論が必要なのだ」とも仰られました。
しかし、良き理念に良き結果が伴うわけではないのは、古典的自由主義者バーナード・マンデヴィルが「私利私欲に良き結果」が出ることがあると述べた通りなのです。

デヴィッド・ハーヴェイが『新自由主義』で述べた通りであり、理念段階と実践段階は分けて考えねばなりません。
私は、「新しい公共」などという崇高なものは民衆の手に委ねればいいと思っています。
そうでなければ、貴重な「公共」という宝石は政府の汚れた手に触れた瞬間砕け散るでしょう。

社会科学とは



かつて。共産主義という怪物がいました。
すべての政治体制が普遍法則の下共産主義世界に統合される。
そう信じ込んでいました。

それはなぜ誤ったのか。
それは社会科学が本質的に「経験の普遍化」であることに拠ります。
白鳥を見て「白鳥は白い」とするのが社会科学なのです。
これを細菌指摘したのは『ブラック・スワン』のナシーム・ニコラス・タレブですが、
最初に指摘したのはハイエクです。社会科学は本質的に帰納法なのです。

私は、社会科学というのは科学というよりむしろ芸術に似ているとおもいます。
社会の遭遇した体験から普遍性を見出し、鮮やかにえぐりだす。しかしそれは追試の利くものではない。
それはむしろ、美しき絵画にこそ比類するものでしょう。

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公共哲学による社会科学の統合:山脇『公共哲学とは何か』(ちくま)

お久しぶりです。そろそろブログの更新を再開しようと考えています。
更新頻度を上げていきたいと考えているのでよろしくお願い致します。



この本は公共哲学とは何かを扱った本です。
この本を読んで感じたのは、「公共哲学」が従来のいわゆる「哲学科」から離れ、
社会科学全体に哲学の影響力を取り戻そうとしているということですね。
これは、何も公共哲学だけの話ではありません。


上の本に見られるような、ゲーム理論主導による社会科学を統合する動きもあります。
現状の学問は、ヴェーバーが『職業としての学問』で説いたような学問の専門化の時代を通り越し、
普遍化への回帰がはじめたということでしょう。

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Short Column:投票と若者

近頃、投票に行かない若者が問題視されるようになってきた。選挙が近づけば、「選挙へ行こう!」というような啓発のチラシが配られ、識者も投票の大切さを説く。
中でも深刻なのは若者投票率の低下であると言われる、事実20代の若者の投票率は高齢者に大きく劣る。ここで登場するのは、「なぜ若者は選挙に行かないのか」という論理である。
私がよく目にするのは、だからこそ若者はダメだとするような、単純なステレオタイプで集団を見る態度である。だが、本当に若者は無責任だから選挙に行かないのだろうか?

人々がなぜ選挙に行くのか?というのは、自分の政治的意見表明、義務感、つきあいなど様々な要素が考えられる。ここで気づくのは、選挙において心情的なものを除いた目的というのは無いということだ。本来であれば、投票によって得られる利益のために我々は投票するのではないだろうか。例えば、空腹を満たすためにパンを食べる。我々は義務感やつきあいでパンは食べないはずである。投票によって得られる利益、というのはなかなか難しい。私がある候補者に投票しなかったばかりに私のためになる政策を打ってくれなかったということはほとんど無いし、私個人が投票しようがすまいが私個人のメリットにほとんど関わりないからだ。したがって、結局のところ我々が投票することに大した意味はない。つまり、人がみな合理的経済人で個人的にものごとを考えたとき、投票率はかなり低くなるだろう。では、なぜ高齢者と若者に大きな投票率の差がついたのだろう?若者が合理的経済人で、高齢者が馬鹿ばかりなのだろうか。

では、ここでメリットの逆側、デメリットを見てみることにしよう。選挙に行くことのデメリットは何か。もし行っていれば映画を見にいけた、ゲームができた、デートに行けたというような、「もし行っていれば○○出来た」というのがデメリットである。このコストを考えてみると、若者と高齢者の投票率の差は自明の理であることがわかる。というのも、若者のコストが高齢者に比べると大きいのである。学生を除けば、フルタイムで働く人々が多い若者。その若者の休日は、年金暮らしで余暇のある老後を送ってらっしゃる方々に比べれば、休日の数からいってより価値が大きいはずである。となれば、その貴重な休日を費やして投票に行く若者の割合が、その高齢者の割合より低いのは、当たり前と言えば当たり前なのだ。

この当たり前の結果が、悲劇を招いている。若者の投票率の低下が若者の投票数の減少を招き、結果として政治家は高齢者に支持を受ける政策を打てば良いと考えるようになってしまいかねない現状がある。もちろん、選挙に行こうという啓蒙は大切である。とはいえ、彼らは合理的に判断しているとして相手を容認する必要はあるのではないか。我々が考えるべきなのは、合理的に判断した若者がどうしたら高齢者と同等の比率で選挙に行ってくれるかと考えることなのである。



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