レイ・ブラッドベリ『華氏451度』:快楽と苦悩の間
レイ・ブラッドベリ『華氏451度』は、本が焼かれる未来の社会を描いたSF小説である。主人公はその社会で焚書課に所属し、日夜書籍の焼却に明け暮れている。しかしそんなある日、クラリスという少女に出会い、日常に疑問を持ち始めることから小説が動き出す。
主人公が住んでいる社会は、テレビやラジオが常時駆動し、国民にコンテンツを提供している。そして、高度に機械化された社会の中で、人間は直裁的になり、低俗的になっている。主人公は、日常に疑問を持ち始めることからはじまり、深遠なるものについての思索をめぐらし始める。そしてそれは、自分の立場を貶すことにもなった。
内容についての詳細は置くが、この本の中心にあるものは、概念としての「本」と「テレビ・ラジオ」の二項対立である。一見勘違いされがちであるが、別に焚書といっても禁書に指定されている以外の本は存在することが読み取れる。そして、焚書される本の代表格は「プラトン」であったり「聖書」であったりするわけである。これら作品に共通することは、コンテンツの受容者に対して広い意味での「費用」を要求することだ。内容は難解で、読み取るのに深い思索を要求する。一方、「テレビ・ラジオ」の方と言えば、極端にダイジェスト化されている名作であったり、映像上の「親戚」であったり、垂れ流される「海の貝」と称するラジオであったりするわけである。これらは受容者に一切「費用」を要求することはない。刹那的な享楽に身を委ねれば良い。
こうした二項対立ははっきり言ってこれだけでは陳腐な発想と言わざるを得ない。しかし、この作品の白眉たる部分は多様な登場人物がブラッドベリの複雑な世界観を反映しているところにある。たとえば、主人公の上官は体制側の立場から、主人公に強烈な反問を浴びせる。上官の言に拠れば、いわゆる「本」のようなものにより、個々人が個性を深め、社会が複雑化すれば、社会にとって不都合である。だからこそ、多数派に合わせ、タイプライターをしまい込む必要がある、と諭す。これは功利主義、保守主義、相対主義の立場からの強烈な反論であり、ある意味現代社会の正当化の象徴でもあるだろう。まして、それによって国民は「幸せ」を手に入れており、主人公ですらそうであったのだ!これを信じることの、どこに正義があろう。だからこそ主人公は混乱する。そこで登場するのが、主人公を助けてくれる老教授であり、逃げ延びた先にいる「本」となった老人たちである。老教授は主人公に、本があることの本質を本による知の核心の会得と思考の相互作用に基づく理念の確立とその実践にあると論じる。
普段我々は、リベラルな民主主義に基づく相対主義の思考に浸かりきっている。それゆえに、我々は思考に優位づけしたり、はっきりと真理の存在を語ったりすることは恐れることになりがちだ。しかし、極端なディストピア社会で刹那的な享楽に浸る人びとを見た時、我々は相対主義を否定せざるを得ない。この本の価値はここにあるだろう。真理は存在せずとも、真理を恐れず、難解な本や人びととの相互作用に我々は挑戦しなければならないのである。くれぐれも強調しておきたいのは、この作品が単純な形而下的な本擁護にないと私が信じることだ。映画は確かに頻繁な場面変更で人びとの直覚に訴えるが、それは別に映画が深遠なるものに到達し得ぬことを決して意味しないし、漫画やアニメ等であっても同様であろう。むしろ核心は、自分の思考とコンテンツを相互作用できるかどうかにこそかかっている。コンテンツの受容者こそ、この作品の中心問題なのである。
最後に、主人公は書籍を知識として貯め込もうとする人びとと出会い、全体主義社会の克服と人びとが今日に至るまで培ってきた真理の力強さをアピールする。そして、全体主義社会はそれと共に破壊され、主人公は社会の再建に立ち上がるという、極めて希望に満ちた結末となっている。主人公の上官の死、そして彼が死にたがっていたこともそれを象徴しているだろう。
この本は、マッカーシズムに基づく「赤狩り」の時代に著された。今日、焚書の現実的脅威は失せた。しかし、この本でも強調されているように、むしろ禁書というのは自生的諸力によってなされることが多いというのが真実である。刹那的享楽の狂騒により、書籍すらテレビ・ラジオ化する。これこそ恐るべきことである。例えば、雑誌の横吊り広告を見れば、どういうことかは得心できるだろう。現代日本社会、今日的状況においても「華氏451度」のメッセージは完全にアクチュアルである。
主人公が住んでいる社会は、テレビやラジオが常時駆動し、国民にコンテンツを提供している。そして、高度に機械化された社会の中で、人間は直裁的になり、低俗的になっている。主人公は、日常に疑問を持ち始めることからはじまり、深遠なるものについての思索をめぐらし始める。そしてそれは、自分の立場を貶すことにもなった。
内容についての詳細は置くが、この本の中心にあるものは、概念としての「本」と「テレビ・ラジオ」の二項対立である。一見勘違いされがちであるが、別に焚書といっても禁書に指定されている以外の本は存在することが読み取れる。そして、焚書される本の代表格は「プラトン」であったり「聖書」であったりするわけである。これら作品に共通することは、コンテンツの受容者に対して広い意味での「費用」を要求することだ。内容は難解で、読み取るのに深い思索を要求する。一方、「テレビ・ラジオ」の方と言えば、極端にダイジェスト化されている名作であったり、映像上の「親戚」であったり、垂れ流される「海の貝」と称するラジオであったりするわけである。これらは受容者に一切「費用」を要求することはない。刹那的な享楽に身を委ねれば良い。
こうした二項対立ははっきり言ってこれだけでは陳腐な発想と言わざるを得ない。しかし、この作品の白眉たる部分は多様な登場人物がブラッドベリの複雑な世界観を反映しているところにある。たとえば、主人公の上官は体制側の立場から、主人公に強烈な反問を浴びせる。上官の言に拠れば、いわゆる「本」のようなものにより、個々人が個性を深め、社会が複雑化すれば、社会にとって不都合である。だからこそ、多数派に合わせ、タイプライターをしまい込む必要がある、と諭す。これは功利主義、保守主義、相対主義の立場からの強烈な反論であり、ある意味現代社会の正当化の象徴でもあるだろう。まして、それによって国民は「幸せ」を手に入れており、主人公ですらそうであったのだ!これを信じることの、どこに正義があろう。だからこそ主人公は混乱する。そこで登場するのが、主人公を助けてくれる老教授であり、逃げ延びた先にいる「本」となった老人たちである。老教授は主人公に、本があることの本質を本による知の核心の会得と思考の相互作用に基づく理念の確立とその実践にあると論じる。
普段我々は、リベラルな民主主義に基づく相対主義の思考に浸かりきっている。それゆえに、我々は思考に優位づけしたり、はっきりと真理の存在を語ったりすることは恐れることになりがちだ。しかし、極端なディストピア社会で刹那的な享楽に浸る人びとを見た時、我々は相対主義を否定せざるを得ない。この本の価値はここにあるだろう。真理は存在せずとも、真理を恐れず、難解な本や人びととの相互作用に我々は挑戦しなければならないのである。くれぐれも強調しておきたいのは、この作品が単純な形而下的な本擁護にないと私が信じることだ。映画は確かに頻繁な場面変更で人びとの直覚に訴えるが、それは別に映画が深遠なるものに到達し得ぬことを決して意味しないし、漫画やアニメ等であっても同様であろう。むしろ核心は、自分の思考とコンテンツを相互作用できるかどうかにこそかかっている。コンテンツの受容者こそ、この作品の中心問題なのである。
最後に、主人公は書籍を知識として貯め込もうとする人びとと出会い、全体主義社会の克服と人びとが今日に至るまで培ってきた真理の力強さをアピールする。そして、全体主義社会はそれと共に破壊され、主人公は社会の再建に立ち上がるという、極めて希望に満ちた結末となっている。主人公の上官の死、そして彼が死にたがっていたこともそれを象徴しているだろう。
この本は、マッカーシズムに基づく「赤狩り」の時代に著された。今日、焚書の現実的脅威は失せた。しかし、この本でも強調されているように、むしろ禁書というのは自生的諸力によってなされることが多いというのが真実である。刹那的享楽の狂騒により、書籍すらテレビ・ラジオ化する。これこそ恐るべきことである。例えば、雑誌の横吊り広告を見れば、どういうことかは得心できるだろう。現代日本社会、今日的状況においても「華氏451度」のメッセージは完全にアクチュアルである。
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【ネタバレ注意】風立ちぬ 感想
「貧乏な国が飛行機を持とうとするなんて、矛盾しているじゃないか。(中略)仕事をするために所帯を持つ、これも矛盾だ」(要旨。うろ覚えなのはご容赦)
主人公のライバルである人間が述べた言葉である。「風立ちぬ」の感想は「矛盾」の一言につきる。
舞台は戦前の日本。戦闘機設計技術は未熟で、ドイツに追いつくために巨額の技術費を支払い、洋物の製品を輸入している。しかし足元を見れば、そこには貧乏な子どもが腹をすかせ、牛が戦闘機を牽いている。主人公とて飛行機に夢を求め、飛行機設計に携わるが、その実際は戦争で多くの人を殺戮する「零戦」を製造する結果を生むことに他ならなかった。主人公の恋人も、主人公は彼女を愛していながら、恋人が結核を快癒させるために療養施設に行くことを拒否するし、彼女の傍らにいるためにタバコを吸うことすらしてしまう。
しかも、彼の場合そのことから完全に目をそむけてしまっている。彼は国費で留学し贅の限りを尽くした飛行機を作り、子どもに施しを与えることで自分の良心を満足させる。戦闘機についても自分の夢を追っていることを信じて疑わなかった。恋人の生命についても「僕らは一日一日を大切に生きている」とにべもない。
こうした主人公に、近くの人びとは容赦なく問いかけ続ける。件のライバルは子どもへの施しを「偽善だ」と切って捨てるし、主人公の妹も常に「にいにいは薄情者です」と批判している。上司の黒川も「それは君のエゴイズムじゃないか」と結婚のときに批判する。極めつけは避暑地で出会った外国人の「みんな忘れる」の一言とも言えるだろうか。その結果として、零戦の誕生、恋人の死、そして敗戦という結果を生む。ここで映画のポスターにある「(それでも)生きねば」という言葉が入ってくるのかもしれない。
私は、映画を鑑賞していて釈然としない部分に襲われたのはやはりそういった箇所である。なぜ、主人公は戦争に対してここまで無関心でいられるのだろう。また、彼女の生を少しでも伸ばすために何かしようと思わなかったのだろうか、ということである。彼は身勝手の薄情者で、それでも「生きる」ということなのか。
しかし、私はこの作品を鑑賞してよかった、とも思う。一つのことにこだわり続け、立派な作品を完成させ、周囲の称賛を買った主人公。その姿には、一つの憧れを覚えざるを得ないからである。本当の自由人は、羨ましい。彼にとっては、彼女も国も、どうでもよいのかもしれない。
主人公のライバルである人間が述べた言葉である。「風立ちぬ」の感想は「矛盾」の一言につきる。
舞台は戦前の日本。戦闘機設計技術は未熟で、ドイツに追いつくために巨額の技術費を支払い、洋物の製品を輸入している。しかし足元を見れば、そこには貧乏な子どもが腹をすかせ、牛が戦闘機を牽いている。主人公とて飛行機に夢を求め、飛行機設計に携わるが、その実際は戦争で多くの人を殺戮する「零戦」を製造する結果を生むことに他ならなかった。主人公の恋人も、主人公は彼女を愛していながら、恋人が結核を快癒させるために療養施設に行くことを拒否するし、彼女の傍らにいるためにタバコを吸うことすらしてしまう。
しかも、彼の場合そのことから完全に目をそむけてしまっている。彼は国費で留学し贅の限りを尽くした飛行機を作り、子どもに施しを与えることで自分の良心を満足させる。戦闘機についても自分の夢を追っていることを信じて疑わなかった。恋人の生命についても「僕らは一日一日を大切に生きている」とにべもない。
こうした主人公に、近くの人びとは容赦なく問いかけ続ける。件のライバルは子どもへの施しを「偽善だ」と切って捨てるし、主人公の妹も常に「にいにいは薄情者です」と批判している。上司の黒川も「それは君のエゴイズムじゃないか」と結婚のときに批判する。極めつけは避暑地で出会った外国人の「みんな忘れる」の一言とも言えるだろうか。その結果として、零戦の誕生、恋人の死、そして敗戦という結果を生む。ここで映画のポスターにある「(それでも)生きねば」という言葉が入ってくるのかもしれない。
私は、映画を鑑賞していて釈然としない部分に襲われたのはやはりそういった箇所である。なぜ、主人公は戦争に対してここまで無関心でいられるのだろう。また、彼女の生を少しでも伸ばすために何かしようと思わなかったのだろうか、ということである。彼は身勝手の薄情者で、それでも「生きる」ということなのか。
しかし、私はこの作品を鑑賞してよかった、とも思う。一つのことにこだわり続け、立派な作品を完成させ、周囲の称賛を買った主人公。その姿には、一つの憧れを覚えざるを得ないからである。本当の自由人は、羨ましい。彼にとっては、彼女も国も、どうでもよいのかもしれない。
部族としてのAKB、柔道、体罰・・・
AKB48峯岸みなみの断髪問題、桜宮高校の体罰問題、柔道女子チームの暴力問題・・・現在の日本で論争的であり、かつ話題になっている問題というのはひとつの共通の根本原因を抉っているように見えます。
これは、社会においてそれぞれの集団の内的な合理性を如何に扱うのかという問題です。例えば、オウム真理教で昔、ハマった学生が大衆の面前で修行と称して奇行に走っていたという問題のことを考えてみるとわかります。すなわち、彼彼女らの行動は彼らの属する集団内では至って整合的なわけです。「ルール」があり、それに反した・あるいは従った結果として行動があるということです。AKBの問題に照らせば「恋愛禁止」というルールに反したことで彼女は断髪しました。桜宮高校の例で言えば、顧問の敷いた部長として満たされる資質にそぐわなかったからこそ、彼は体罰を受け続けました。柔道女子チームとて同様の論理でパワハラを受けたのでしょう。これは挙げられた集団の中では至って「正しい」とみなされていたことが明白です。
しかし、それらの行為は社会一般の行動規範と照らした時に整合的ではないと考えられます。すなわち、AKBの問題に照らせば直感的に「やりすぎ」となりますし、体罰問題にしても同様です。
現状としては以上ですが、それをどう扱うかは難しい問題です。社会一般とずれたルールを採用する集団は無数に存在しますし、それは同時に魅力にもなります。「スパルタ教育の塾」「友達感覚の先生」こうしたキャッチフレーズは、全く異なる話ですが、社会一般とずれている点では同じです。多様な社会の在り方を認めているのは、多種多様な規範です。これを一方的に議論の俎上に載せ、「おかしい」と言い張ることに益があるかどうかは微妙な問題であるどころか、社会の多様性を損ねる懸念すらあります。
結局、常識的な結論としては、社会規範の優越性を認めつつ、それが明白に法律に反するような形でなければ、これを擁護すべしというのが、これを一般論に落とした際の結論だと思います。したがって、これらの問題についても、法についての規定等に照らした、理性的な判断が必要です。決して「ルール」といったものの優位を認めては行けないでしょう。しかし、法に反しないときは、彼らの自由を、最大限認めるような寛容な考えを持つべきです。
これは、社会においてそれぞれの集団の内的な合理性を如何に扱うのかという問題です。例えば、オウム真理教で昔、ハマった学生が大衆の面前で修行と称して奇行に走っていたという問題のことを考えてみるとわかります。すなわち、彼彼女らの行動は彼らの属する集団内では至って整合的なわけです。「ルール」があり、それに反した・あるいは従った結果として行動があるということです。AKBの問題に照らせば「恋愛禁止」というルールに反したことで彼女は断髪しました。桜宮高校の例で言えば、顧問の敷いた部長として満たされる資質にそぐわなかったからこそ、彼は体罰を受け続けました。柔道女子チームとて同様の論理でパワハラを受けたのでしょう。これは挙げられた集団の中では至って「正しい」とみなされていたことが明白です。
しかし、それらの行為は社会一般の行動規範と照らした時に整合的ではないと考えられます。すなわち、AKBの問題に照らせば直感的に「やりすぎ」となりますし、体罰問題にしても同様です。
現状としては以上ですが、それをどう扱うかは難しい問題です。社会一般とずれたルールを採用する集団は無数に存在しますし、それは同時に魅力にもなります。「スパルタ教育の塾」「友達感覚の先生」こうしたキャッチフレーズは、全く異なる話ですが、社会一般とずれている点では同じです。多様な社会の在り方を認めているのは、多種多様な規範です。これを一方的に議論の俎上に載せ、「おかしい」と言い張ることに益があるかどうかは微妙な問題であるどころか、社会の多様性を損ねる懸念すらあります。
結局、常識的な結論としては、社会規範の優越性を認めつつ、それが明白に法律に反するような形でなければ、これを擁護すべしというのが、これを一般論に落とした際の結論だと思います。したがって、これらの問題についても、法についての規定等に照らした、理性的な判断が必要です。決して「ルール」といったものの優位を認めては行けないでしょう。しかし、法に反しないときは、彼らの自由を、最大限認めるような寛容な考えを持つべきです。
ハイエク読書ガイド
ハイエクの概説書で使い物になるのは『ケインズとハイエク』(松原)ぐらい。
池田信夫、渡部昇一の本は単独で見ればいいかもしれないがハイエクの概説書としては
正直レベルが低い。自説に誘導したいだけに見えなくもない。
正直ハイエクはかなり読みやすい部類に入るので『個人主義と経済秩序』あたりから入るのが一番おすすめ。
そこから『隷属への道』『自由の条件』『法と立法と自由』に入っていけば良い。
もし大学図書館が使える立場なら『市場・知識・自由』(ミネルヴァ)という論文集は出来が良いし魅力的。
そこから興味を持ったものを読みかじっていけばあっという間にハイエクについての知見が得られる。
池田信夫、渡部昇一の本は単独で見ればいいかもしれないがハイエクの概説書としては
正直レベルが低い。自説に誘導したいだけに見えなくもない。
正直ハイエクはかなり読みやすい部類に入るので『個人主義と経済秩序』あたりから入るのが一番おすすめ。
そこから『隷属への道』『自由の条件』『法と立法と自由』に入っていけば良い。
もし大学図書館が使える立場なら『市場・知識・自由』(ミネルヴァ)という論文集は出来が良いし魅力的。
そこから興味を持ったものを読みかじっていけばあっという間にハイエクについての知見が得られる。
保守の本懐
保守を掲げる政治家は多いです。安倍自民党総裁、石原前都知事、平沼赳夫太陽の党共同代表・・・etc
しかし、彼らは保守の意義を何としているのかは気になります。
そもそも、保守主義とはエドマンド・バークをその祖とし、英国を発祥とするものです。
バークはフランス主義の惨禍を目の当たりにし、「フランス革命に関する省察」という大著を
著しました。
彼は理性の強さを過信して「理性の祭典」などを開いていたフランスのジャコバン派政権を批判し、
「偏見」の重要性など、旧来の慣習を重んじる保守主義の主張を打ち出しました。
まさに保守の本懐とはここにあります。一見不合理に見えるものにも従う姿勢こそが、
保守には求められます。
保守を標榜する政治家が、盛んに改革を連呼するなど本来あってはなりません。
保守とは、決して対外硬派であることを示す立場ではないのです。
保守を標榜する政治家を見る際は、この観点こそが大切になるでしょう。妄りに合理性を信奉していないか。
改革を連呼していないか。これが大事です。
しかし、彼らは保守の意義を何としているのかは気になります。
そもそも、保守主義とはエドマンド・バークをその祖とし、英国を発祥とするものです。
バークはフランス主義の惨禍を目の当たりにし、「フランス革命に関する省察」という大著を
著しました。
彼は理性の強さを過信して「理性の祭典」などを開いていたフランスのジャコバン派政権を批判し、
「偏見」の重要性など、旧来の慣習を重んじる保守主義の主張を打ち出しました。
まさに保守の本懐とはここにあります。一見不合理に見えるものにも従う姿勢こそが、
保守には求められます。
保守を標榜する政治家が、盛んに改革を連呼するなど本来あってはなりません。
保守とは、決して対外硬派であることを示す立場ではないのです。
保守を標榜する政治家を見る際は、この観点こそが大切になるでしょう。妄りに合理性を信奉していないか。
改革を連呼していないか。これが大事です。
ハイエクとノージック
政治哲学書を漁る際に、「ハイエクやノージックなどのリバタリアニズムは~」
と言われることに壮絶な違和感があります。
この二人の思想原理は全く異なるものだからです。
そもそも、彼が自由主義と述べるときの自由主義とは経済体系としての自由主義が強く、それは
社会主義、混合経済と対置させるものです。
そもそもハイエクは経済学者であり、彼は自由経済体制を擁護したわけであってノージックのように
自由を至上の価値と置いたわけではありません。彼は徴兵制ですら擁護した人間です。
彼はバークの系譜をつぐ経済的自由主義者であり、その根本的価値を社会の維持に求めていたと
思います。
晩年の著作では周囲の批判に応じてその客観的基準に拘泥していた感はあるものの、それは主要な論点では
ありません。
さらに言えば、彼は自由を求める人間を人間の不可知性、未熟さに置いています。その中で
社会を運営するためには、市場と法の支配の下での自由が必要なのです。
一方ノージックは政治的な自由主義者であり、徹底的に自由を絶対視します。
そして、あらゆるパターナリズムを拒否する中で政府の存在を肯定するために最小国家主義を唱えます。
ロックの自然法状態での賠償原理の執行機関としての国家の必要性を認めたのです。
それは論理的に極めて精緻であり、論駁の余地は少ない。
ノージックは最終的にコミュニティ内の体制については言及せず、国家を「枠」として規定しています。
私が思うのは社会主義でも自由は作れるということです。なぜなら、市場は人間の他者の束縛を
必ずしも排さないでしょう。むしろ、他者の恣意を廃するために高度な統制経済を採ることすら考えられます。
市場という必ずしも人間の努力を認めるわけでないものを肯定するのに、自由を引用するのは、正直
筋悪ではないかと個人的には思っています。自由を両者とも「他者の恣意を廃する」と定義しているので、
矛盾はないのですが。初期のハイエクは自由を行動の幅としてみたり、やはり含意としてはあるのでは、視野
がもっと広くあるべきではと思ってしまいます。
私の考えが甘いのかもしれませんけれども。